読む読まないの基準

今はもう基本的にクィア要素がない話は小説でも映画でもドラマでも読みたくない/観たくないと思っているという話はTwitterでは何度もしているのだが、あらためてどんな基準、感覚なのかを書いておこうかと思う。

  • 主人公や主な登場人物に非シスヘテロの人物がいない
  • 非シスヘテロの人物がいても安易な多様性しぐさにすぎずきちんと奥行きのある人物描写・エピソードを伴わない
  • 性別二元論、異性愛を当然の前提としている
  • ヘテロの男性目線による女性の外見容姿の事細かな描写がある
  • 翻訳で女性の役割語を多用している

というようなポイントが相互に相まって拒否感が出たらそこで離脱する。
減点方式というわけではなく、また各ポイントも程度問題でもあり、必ずしも当てはまらない作品もおそらくあるだろうとは思うが、上記のうち3番め4番めを感じると間違いなく即離脱して、買った本なら処分するしもう読まない作家として覚えることになる。
翻訳の女性の役割語も安易に多用していると感じると読み通すのはかなり厳しい。ゼロにしろとは言っていない。

こう書き出してみると、クィア要素がないとだめというよりも、性別二元論、異性愛、そしてそれらに依拠するジェンダー表象をあたりまえの、「自然の摂理」かのように踏まえている作品が心の底から無理なのだなとわかる。逆にそのような自明でもなんでもないマジョリティの規範でしかないものを微塵も疑わない恥ずかしい態度さえなければクィア要素がなくても楽しめる。3月に読んだものの中では『警部ヴィスティング カタリーナ・コード』がそれにあたる。

実際読んでみないとわからないのが痛いところなのと、いわゆる著名な白人男性の作家(自分が主に米欧圏の翻訳文学を読むことが多いため)が軒並みだめになる可能性が高いので、楽しめるどころか通読できるものすらかなり限られ偏るのだがこればかりはしかたがない。批評の仕事をしているとか大学の課題だとかではないので嫌なものを読むことを自分に課す必要はないし、自分の尊厳に関わることなので。

インターセクショナリティという言葉を持ち出すまでもなく経験というものは人それぞれに固有で異なるものなので、ノンバイナリーのaroaceである私と似たような属性の人は感じ方考え方も似通うなどということがあるはずもなく、これは私だけの考えではあるのだが、not for me的に言い訳したいのでは実はない。どちらかというと世界をいまだ覆うマジョリティ規範に対する抵抗であり、宣言であると思っている。