アセクシュアルへの無理解について

トランスジェンダーとハリウッド:過去、現在、そして』(原題 Disclosure: Trans Lives on Screen) で実話/事実だからといってトランスジェンダーが暴力の被害に遭う直接的な描写をすることが社会と当事者に対してどのようなメッセージを送ることになるかという話をしていたと思うけど、それでふと、忘れていたBL作品『初恋、カタルシス。』を思い出した。
そこではアセクシュアルの青年が恋人的な信頼関係にあるはずの相手との性行為を我慢しその時間が過ぎるのを待つ、なんなら早く終わるように協力する、そういうつらい描写があるにもかかわらず、それが相手との関係を前向きに進めるための歩み寄りとして描かれ、話はハッピーエンドとして締めくくられていた。
望まぬ性行為が終わるのをじっと待つという描写は多くのアセクシュアルにとってめちゃくちゃリアルなものなのではないかと思うけど(性的欲求を持たないアセクシュアルがなぜそのシチュエーションに?とかはここでは言及しない)、本来あってはいけないことのはずだ。拒否したい性行為を相手への罪悪感から我慢するというのはほんとうの意味で同意のある性行為ではない。こうした作品を読んだまだスタンスが固まっていない当事者は我慢しないと関係を築けないと思ってしまう危険がある。
当事者への直接の影響も重要だけど、それ以上にショックだったのはこのような描写がリアルですごくいいとおおむね好評だったことと、複数の当事者からあがった批判への反応がまあわかるけどでも…とかぜんぜんそんな風には感じないとかで、なんだかぜんぜん取り合われない感じだったことだ。
なんだどういうことだ、リアルな抑圧がギュッと胸を掴む感動だっていうのか、ハッピーエンドのラブストーリーになるっていうのかと当時は心底びっくりして大騒ぎしてしまい、フォロイさんが優しいDMをくれたほどだった。今もまあぜんぜん大騒ぎできるし、考えも変わってはいない。あれははっきりと性暴力の描写だと言っておきたい。
あの描写があの物語の中の展開の1つとして正当性をもつとすれば、結末はアセクシュアルの彼がパートナーとのセックスについて悩んだり我慢したりする必要がない新しい関係性を作り出すことしかないと思う。我慢して応じ、習慣化によって嫌なことに適応していく、それは歩み寄りではないしハッピーでもない。
アセクシュアルとは性欲があんまりない人とかセックスに興味がない人というようなイメージなんだろうか、だから好きな相手のことを思って頑なな自分を少し変えるそれが愛、いい話、と思ってしまうのだろうか。でもアセクシュアルとはそういうものではない。
アセクシュアルの彼が相手のために我慢してセックスに応じ続けても、彼にとってはいつまでも我慢でしかないだろうと思う。少しは慣れて拒否感が薄れるかもしれない、でもその「慣れ」は「麻痺」とどれぐらい違うだろう、そんなに違わないんじゃないだろうか。
アセクシュアルの彼に配慮して性愛者であるパートナーの方が我慢するなら同じように抑圧なのでは、と考える人もいるかもしれない。でも自分の性欲を望まない相手に向けるのを我慢することと、自分の身体を他人の好きにさせるのを我慢することとは絶対に同じではないと思う。それは異性愛者でも同様ではないだろうか。
この設定が異性愛カップルであっても抑圧的で性暴力であることは変わらない。仮に異性愛カップルの女性の方がほんとうは嫌だけど好意はあり関係を保ちたいから我慢して応じて少しずつ慣れるなんて描写だったら?批判する人は多かったんじゃないだろうか。アセクシュアルに無知無関心だから記号として消費できてしまうのではないだろうか。
もしアセクシュアルについては知っているかつこの展開をリアルでよいと享受できるのなら、知ってるつもりなだけなんじゃないだろうか。知らないことは仕方ない、誰だって私だって知らないことだらけだ。だから虚心に学ばなきゃいけないし、当事者の声やその他の真摯な批判を黙殺するような態度はだめだ。

トランスジェンダーとハリウッド』の名前を出しておきながらその話をぜんぜんしていないけど、ハリウッド作品におけるトランスジェンダーの描き方を中心にトランスジェンダー差別を浮き彫りにする重要な作品なのでぜひ観てほしい。観た後は世界が違って見える、自分が今までいかに何も見ていなかったかその一端を思い知る。私はトランス差別を断固許しません。

トランスジェンダーとハリウッド:過去、現在、そして』

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※noteに書いていた文章を引き上げてこちらに転載