テヨンと銀のスプーン

昨日あたり発売だったHIGHCUT 242号にイリチルのインタビューが出ている。聞き手はキム・ヨンデ Kim Youngdaeさん(Twitter)、在米の音楽評論家で、YouTubeで批評シリーズをやっているのを見たことがある。私は主に英訳で部分的に読んだんだけど、新曲Superhumanの楽曲についてなどまじめに制作に関する部分を聞いてくれていて読みがいがあると思う。その中で、Regular/Irregular収録曲내 Vanの歌詞が印象的だったと話を振られてテヨンが答えているんだけど、それが私も印象的だったのでちょっと書いておきたくなった。 事前に掲載情報が出回らなかったせいか言及しているアカウントもあまりなく翻訳も探しにくいのだけど、主にテヨンの箇所だけ英訳してくれているツイートから내 Vanに関するところだけリンクを張っておきます(ご本人に許可は取っていない、申し訳ない)

 내 Vanで話題に出た該当歌詞は以下。

SM Idol 너흰 틀렸어 생각보다 안 타협해

(おまえらは間違ってる、SMのアイドルは思うほど妥協しないという感じの内容) 

それに対するテヨンの回答は、いちおう日本語訳も含めて複数の訳を読んだうえで、でも私が解釈した内容なのでそのへんは差し引いてほしいけどこんな感じ。

SMのアイドルは銀のスプーンを持って生まれてきたとみんな思ってると思う。表面的にどう見えたとしても、中をのぞけばあれこれ悩みもあるごく普通の20代。自分たちに対する偏見を除きたいという気持ちがあった

銀のスプーンはBTSの曲で特に有名になったフレーズと言ってよいかと思うけど、親の年収によって生まれたときからすでに人生は決まってしまうというような文脈で使われる。英語でも裕福な家に生まれるという比喩としてある言葉だ。BTSはいまさら説明の必要もないけど3大事務所が支配的な韓国のアイドル界で弱小事務所からのし上がった叩き上げというパブリックイメージがあり、本人たち(というか事務所)もそういうストーリーのもとに曲を作り歌詞を書きコンセプトを作ってきていて、銀のスプーンもそんなものを持ってない俺たちにどうしろってんだというような社会への憤りを象徴するものだった。

一方でSMエンタは会社規模と所属アーティストの数、知名度からいって3大事務所の最大手といっていい。SMアイドルはアイドルの頂点、選ばれし者というイメージは少なからずあると思う。NCTはそのSMエンタの中でモンスターグループEXOの次の時代を担うべく、従来のアイドルの活動のあり方からは先が予想しにくい形態と方法論で展開するプロジェクトで、今現在の位置付けやコンセプトは多少変わってきたかもしれないけど、少なくとも立ち上げ当初はSMの命運を左右する、成功すればK-POPの次世代のフォーマットもSMが作ることになる、そういうかなり大胆なものだったんじゃないかと思う。テヨンは最初からそのビッグプロジェクトの核となるメンバーとして、完璧と言われるビジュアルと抜きん出たダンススキルでデビュー前から注目度が高かったし、今もそれは変わらないと思う。いわば成功者中の成功者とも言えるわけだけど、そのテヨンから銀のスプーンという言葉が出たのだ、そう思われてるだろうけど、違う、と。

グループや年次にもよるとは思うけど、SMの子たちは基本的に発言や挙動までかなり管理されていて、ふだんそれほど率直な話を聞く機会は多くない(とはいえラップメイキングなんかはわりと自由にやれている気はするけど)。この銀のスプーン発言だっていわばたったこの一言だし、もっといろいろ思うことがあるだろう部分はうかがい知れない。でもSMに入ったからといってそれだけで銀のスプーンなんかじゃないという言葉はファンとしてもきちんと受け止めたいなというか、BTSにはBTSの、銀のスプーンを持たない俺たちとしての悩みや抑圧があるのだとしたら、NCTにはNCTの、銀のスプーンを持って生まれたという偏見を持たれている俺たちとしての悩みや抑圧があるということをちょっと考えたりしたという話。NCTの前はBTSにどっぷりだったのでなんだか感慨深かった。

とはいえ少なくともBTSにしてもNCTにしても、一世代前とは違って家庭の経済状況はみんな特に悪いわけではたぶんなく、アイドルという職業の中の人としては銀のスプーンの話はそう身に迫る現実というわけではないかもしれないとも思う。だけどアイドル、K-POPアイドルは特に、ある種のコンセプトを演じる創作であり演者であるという側面が強いと思うんだけど、そのコンセプトに中の人が影響されないわけもなくて、そしてそのはざまで演者自身が葛藤し悩むことも当然あるだろう。境目をどこに見るか、あるいは見ないかということは自分の中では意識しておきたいと思ってるし、BTSの叩き上げイメージもNCTのエリートイメージも、中の人の現実と乖離しているという理由で軽視することも、中の人自身の現実と無自覚に同一視することも、どちらもそぐわないよなと思っている。