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ぐうちゃんについて考えていること

バンタンは横アリのシュガさんのかっこよさと目の前で見たチョロの迫力でドボンしてぐうちゃん起点でパフォーマンスは見ててそのうちテテペンを自覚して今に至ります。そんな私がぐうちゃんについて考えていること、バカバカしいですがまとめました。

 

今でもパフォ中に目がいくのはぐうちゃんが多いんだけど、でも彼のダンスがすごく好きというわけでもなかったりする。ぐうちゃんは類い稀な運動神経とか体幹の強さとか勘のよさで、与えられるものは期待以上にできてしまう人なのかもなというイメージをもっていて、歌うことは好きそうだけど、でも自分がどう踊りたいとかこう歌いたいとかそういう欲のような意思のようなものはあまり持ってないかもしれないと以前から思っていた。

そこへ2集に入ったぐうちゃんのソロ曲Beginが、以前ぐうちゃんが兄たちに話したことをナムさんが歌詞にしたものという話が入ってきた。それは今年の年明けらしく、つまり神戸を飛ばしちゃったりナムさんが年末出られなかったりのすぐ後ということで、それに関連するのかもしれないんだけど、自分は身体も丈夫だしどんなに忙しくてタフなスケジュールでも悩みもないけど、兄たちがつらい思いをしてるのをただそばで見てるだけで何もできないのがつらいという話をボロボロ泣きながら話したらしいのだ。そしてBeginの歌詞は、何も持っていなかった小さな自分、香りもないし空っぽだったけど兄たちに出会って自分は自分になった、というような内容で。頭を抱えましたよ、私が感じてたぐうちゃんは、白紙、まっさら、そんなイメージだったから、ぐうちゃん自身のイメージとそんなに離れてなかったということは、自分が見てたぐうちゃんはあながち妄想でもなかったということになるわけで、当たったとかいうことはどうでもよくてなんていうか、事実は小説よりも奇なりじゃないけど、ほんとだったのかとちょっとセンチメンタルな気持ちになってしまった(といっても悲しんだというわけではなくて、ほんとだったのかよぉ!つら!と頭を抱えつつテンションが上がった。というような性向を私は持っている。しんどさを抱えてる人にどうしても興味が湧く)。

かと言って別に、ふだん目にするぐうちゃんがほんとに悩みもなくからっぽに見えたりするわけではないんですよ。私の頭が考えることをうまく言葉にできるかわかんないけど、彼自身が悩みはないとい言うのはきっとほんとうの気持ちで、毎日楽しく練習して身体鍛えて健やかに過ごしてるのだろうし、年齢とか経験のところでもしかすると気持ちの上で一歩引くようなところもありつつも、恵まれた身体能力から来るのか持って生まれた自信と余裕みたいなものも感じるし、いつもあまりいろんなことに動じない感じあるじゃないですか、淡々としてるというか。それなのに今回のように突然感情を溢れさせて泣きながら思いを吐露したり、以前コンサートでもびっくりするくらい急に泣き出したこともあるので、はっきりとした形を持たないまでも、そしてふだんたいして意識しないまでも、おなかの底に何か思うものは持っているのだと思うのだ(そんなのは誰でも同じじゃろと言われるだろうけど、そこは自分の推しグループのかわいいマンネなので過剰に慮る)。

自分はからっぽだと言う、物事に動じない(ように見える)ぐうちゃんが、抑えきれず泣きながら思いを吐露するとはいったいどういう状態なのだろう、とつい彼の(私の妄想に過ぎない)来し方行く末のようなものに思いを馳せてしまうというか、ぐうちゃんの(私の妄想に過ぎない)人生を見守るモードになってしまうのだ、物語を読むように。ほかのメンバーにだって当然いろんな葛藤や野心を抱えて苦労して頑張って将来の不安に押しつぶされそうになりながら悩んだり乗り越えたり変わっていったりという物語を読むことはできると思うんだけど、ぐうちゃんの(私の妄想に過ぎない)(しつこい)物語の核は、夢と現実の狭間にはなく、自分はからっぽだと言う物事に動じない彼が心を震わせる瞬間があるという、ごくパーソナルな、誰にもわからない場所で起こる何かであって、そこに興味が湧いてしまうのだ。

だからといって、そこで起きる何かの中身を考えようとは思わないし、知りたいと思うわけでもない。何かはわからないけど、その人に何かが、その人を形作る過程で糧や障害になる何かが起きているということが重要なのであって、まあそれもしつこく言うけど妄想に過ぎないんだけど、そういうことについ思いを馳せたくなってしまう要素をぐうちゃんは持っている、という話を暑苦しく友に聞いてもらいました。最終的にはあの子は大丈夫、という何の根拠もない楽観論で締めたけどね。まあ、妄想ですから…